FC2ブログ
2011年07月 / 06月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫08月

2011.07.31 (Sun)

<考察> 地方におけるスタバ (再掲)

これまた過去に書いた話に手を加えて昨日facebookに投稿したものです。
終盤を大幅に書き直して図も入れました。長文にも関わらずなかなか好評でした。
facebookをやっていらっしゃらない方のためにこちらにも投稿します。


--------------------------ここから本文------------------------------


先週、『スタバにアメリカンコーヒーは無い』と題して、スターバックスのお客は「くつろぐ都会人を無理して演じているのだ」と書きました。

これが好評で、大勢の方からたくさんコメントをいただきました。この場をお借りして(お借りしなくていいですけど 笑)、御礼申し上げます。
今回はその続編です。 

スタバについては、まだまだ探究すべきことがたくさんあります。あれは、「スタイル消費」や「体験マーケティング」といったマーケティング的側面、また「東京と地方」、「昭和的価値観から平成的価値観への転換点」、「日本とアメリカ(西洋)」、「ホンネと建前」といった社会学的(?)側面・・・いろんな問題の縮図の場です。

今、私が一番興味関心を持っているのは、「地方におけるスタバ」です。
今回はそれについて考察します。
 

■店員の方が客よりエライという構造
 
スタバの客と店員のやりとりは、私には実に「東京的」に見えます。
「東京的」というのは、「サービスや商品の送り手の方が、受け手よりもエライ」ということにつきます。

説明しましょう。
受け手はそのサービスや商品を送り出すブランドに憧れて、ブランドに相応しい顧客像と見られたいと思いながらその店に来るわけだから、必然的に、その店の従業員の方が心理的に優位な立場にいるのです(店の従業員つまり店員は自分のことをブランドの一部だと思い込んでいますから)。 

「送り手(店員)の方が受け手(客)よりもエライなんて、商売としてどうなのよ?」なんて根源的かつヤボなことは考えず、その送り手のエラさに腹を立てずに、求められる客のあり方を見事演じる者だけが、そのブランドの顧客として認められるのです。
(衣料系、宝飾系、飲食系・・イケてるブランドになっているところは間違いなくそうです)

まとめますと、
(1) 店員は自分をブランドに同一視し、優越感を持つ
(2) 客は自分をブランドに同一視して欲しいと願い、多少の屈辱に耐える
この(1)(2)の双方の「同一視」が同じ方向を向いているのが、「ブランド」というものです。

これは、時と場所が変われば誰もが「送り手」側の立場に廻り得る、政治経済の中心都市・東京において成立しやすい構図です(つまりあるブランドでは顧客だった人が別のブランドやサービスでは送り手になっているのが東京という社会。だからすべて送り手中心に廻る)。
 

■地方の店に作用するもうひとつの力学

さて、今回のテーマである「地方」ですが、「送り手(店員) ⇔ 受け手(客)」という関係性に、もうひとつ「東京 ⇔ 地方」という軸が入り込みます(多くの場合、ブランドの日本本社は東京にあります)。

地方の人においては、店員にとっても客にとっても、ブランドを演じるということは「東京の真似をする」ことに他なりません。地方によっては、それを潔しと思わないところもあるでしょう。あるいは「アホらし」と思うところもあるでしょう。

実際のところ、東京でブランドの下に店員と客の双方で演じられる日々のやりとりは、地方都市においてはどうなってしまうのでしょう?


■四国・松山のスタバの例 (注意: まったくの想像です)
 
たとえば、四国・愛媛県の松山市。スタバのホームページによると市内に2軒あるそうですが(2011年7月時点)、どうなっているのでしょう?
東京近郊で見るような、店員が客を上から見下ろしたような、逆に言うと客が店員に媚びたようなやり取りが、この文学と湯の町・松山でも日々繰り広げられているのでしょうか?

それとも、たとえば、例の意味不明の大きさ表示“S・T・G”について、
「こななわけのわからん呼び方を東京の本部はしよんよ。なんちゃ、わからんけん」
とか言いながら、店員(東雲短期大学2年の佐伯さん)とお客(松山東中で同級生だった秋山さん)とが、「小さいのでかまんよ」とか「中(ちゅう)にしょうわい」などと、せっかくの東京からのお達しの気取ったSもTも無視したやりとりをしてるんでしょうか?

飲み終わった後も、
「あーあー、そのままにしといてくれたら私ら下げるけん。えんじゃ、えんじゃ。かまんけん置いといて」などと、セルフサービスのシステムも無視してついつい店員が片付けてしまうとか・・・。

男性店員と男性客の場合だと・・・(これもまったくの想像です)

客「おぅ、おぅ、越智君、なんしよんぞね? バイトしよんかね?」(笑顔)
店員「あ、鴻上先生、何言よんぞね。正社員よ。就職したんじゃ」
客「ほうかね! ほりゃ、えらいのう! どななん?スタバは儲かっりょるかいねえ?」
店員「いや、まあこのご時勢じゃけん、ぼちぼちじゃねえ。先生、注文何にしょうか?」
客「ほうじゃねえ。あの、何言うんかいのう? キャラメルのにおいのするやつ、あれにしょうわい」
店員「キャラメルまきあーと、言うんよ。大きさはどなんしょうか?」
客「普通のでかまんよ。普通ので」
店員「ここの、量が多いけん、Sにしとこわい」
客「おぅ、S。スモールでええよ。ほいで、兄貴はどなんしよんぞ? 東京行った言よったのう。元気にしよんかい?」
店員「ほうじゃねえ・・祭りは帰る言よったけんど、どなんしよんかわからんねえ。いや、先生、それスモールじゃないんじゃ。ショート言うんじゃ。ほんでその上がTでトールじゃ」
客「なんぞう?それは。わしゃ何年も英語の教師をしよるが、なんちゃわからんわ。(料金を支払う) ほんで、おやじさんはどななんぞ?家の商売はうまいこと行きよんか?」

会話はえんえんと続く・・・「ほんなら、また来(こ)ーわい!」。

というようなやりとりを、松山のスタバには大いに期待してるんですけど。あっ、ちなみに会話の方言はすべて私の想像ですので、松山在住および御出身の方、「ここはおかしい」という箇所がありましたら、教えて下さい。いや、教えてくれなくていいので、笑ってお許し下さい。(笑)


■地方では、ブランドの押し付けよりも、ジモト店員とジモト客の“共犯関係”が勝る

これは単に「方言が交わされている」というだけの現象ではありません。

つまり、こういうことです。
まず、東京は人口が多く、かつ全国各地から人がやって来た「他人の集まり」の街だから、店員と客はそこで初めて顔を合わす他人同士なので、店(ブランド)と客」の関係をそれぞれ演じてマニュアルどおりに事を進めるのは容易です。その点、地方都市はどうなんでしょうか?

私は、地方都市では、「店(ブランド)」対「客」の関係を演技する前に、「同じ町で同じ価値観を共有する住人同士」という関係性の方が強くて、いくら東京本部からスマートな対応のマニュアル(つまりブランドのあり方)を送っても、ジモトの人間関係の強さには適わないんじゃないか、と思うのです。

はやい話、ちょっと血縁・友人関係を当たればほとんどの人が何らかの関係がある「ほぼ全員擬似親類」の地方都市において、東京が求めるマニュアル通りのやりとりなんて、恥ずかしくて、あるいはバカらしくて、できないんじゃないでしょうか?

客のオーダーがあるたびに店員全員が「シャンプー、しるぶぷれー」なんてカタカナ化したフランス語で大声で答える美容院がありますが、ああいう居心地の悪さ、気色の悪さ、イタさを感じてしまうのではないかと想像します。

地方といっても決して「田舎」ではない大都市でも、例えば関西地方においてはその傾向が見て取れます。ファションブランドを例に挙げますと・・・これは私が実際に経験したことですが、神戸のアルマーニの店なんか、東京とまったく店員の対応が違っていて、笑っちゃいます。

当家みたいなダッサい家族が全員ユニクロ着てだらだら入店しても(しかも小学生男子のズボンの膝はコケた時に穴が開いたまま)、関西弁のやりとりであたたかく相手をしてくれます。
なんか、お上からいただいた外国仕込みのマニュアルめいたものに対して、「かっこつけても、しょせん私ら、日本人ですから」みたいな、ジモト店員とジモト客の“共犯関係”の方が勝るんですよね。

店員も、東京の店員のようにブランドに自分を同一化はしません。「ジモト民としての自分」の方に軸足を残したまま、ブランドとは距離を置いています。
(私はこういうのが大好きです。心も緩み、財布の紐もついつい緩みます。東京のアルマーニなんかじゃ、一度も買い物をしたことは無いです。店内ではいちいちバカにされているようで、みじめな気持ちになるばかりです。私は店員に言いたい。「お前ら、たまたまそこに就職しただけで何がエライんじゃ!」 もちろん小声でそっと。笑)

 
■地方のスタバのある街と無い街の見分け方 

話を戻しまして・・・、
松山のスタバ、実際はどうなんでしょう??

いやべつに松山でなくてもどこでもいいんですけど、地方都市のスタバに大変興味があります。
ちょっと悲観的な予想ですが、スタバが出店するところは、地方都市でも「東京風の都会スタイルへの憧れ度」が強くて東京本部の思うままに東京スタイルを店員も客もスムースに演じてくれるところを選択基準にしており、非常に残念ながら、そういう場所では店の中のやりとりも東京のスタバと変わらないのでは?と想像しております。非常に残念ながら・・・。

地方都市において、そこがスタバがある街かどうかを判断する方法として、私は以下の方法を開発しました。

歩いている10代~40才前後の人の比較的ちゃんとした服装を着ている人(子供も可)に、「標準語」で道を尋ねます。そこが当然地元の方言のある地方都市であるにも関わらず、その人(や子供)が即座に「標準語」で答えを返してきたら、その街にはスタバがあります。そうでないところには、スタバは無い。
つまり、「東京からの情報にすぐさま従える素地を私たちは常に整えている」という意識のあるところに、スタバがある。
(一部の関西地方のような「絶対に標準語・東京弁は喋らない」ということが法律で定められているところは適用しません・・笑)

スタバの有無


■最後に提案 <東京はブランドで、地方はジモト民の共犯関係で売れ>

店員も客も双方がブランドへの同一視を求める東京および東京への憧れ度の高い地方においては、これまで通り、ブランドへの求心力で売りましょう。お客は熱心に「マイカップ」とか「マイタンブラー」を持って出向いてくれるでしょう、お店の食器洗いの経費を削るために(バッカじゃないの? 笑)。

ジモト民同士の共犯関係の強い地方においては、そのまんまジモト民の共犯関係で売りましょう。こんな風に・・・。

店員「あっ、鴻上先生、今度ふらっぺちーのいうの始めたんじゃ。ちょっと飲んでみてつか」
客「なんぞうそれは? 越智君、昼真っから何をいやらしいことを言よんぞ!」
店員「先生、ちがうちがう。ふらっぺちーの、じゃ」
客「何べん聞いてもわからんわ」
店員「ほんまに、東京本部はこななわけのわからんもんばっかり押し付けて来よんよ。東京の人らは、こななん、わかるんかいねえ?」
客「まあええわい。越智君の勧めじゃけん、飲んでみよわい。(飲む) あっ、こりゃ旨いがね」 

はい。こうやって、店員と客とでブランドのこと、そして東京のことを共に笑いながら、両者ハッピーな関係で商売をやって行きましょう(笑)。

 
・・・今回はここまでです。ありがとうございました。
本当は、日本という国全体で、「オレらはお前らと違うんじゃ!」とアンチ・アメリカ文化の姿勢を打ち出したいところです(笑)。

(「松山」を選んだのは、たまたま仕事上の大先輩がいらっしゃって、前回のスタバの記述にお褒めの言葉をいただいたので、お礼かたがた(?)、題材として取り上げさせていただいただけで、まったく他意はございません。 とても良い街ですよ。笑)

 

スポンサーサイト



テーマ : マーケティング ジャンル : ビジネス

13:35  |  マーケティング的?考察  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)  |  編集  |  Top↑
 | BLOGTOP |  NEXT