2013.03.25 (Mon)
〈目撃〉片手で済ます男
その男は、一陣の風と共に店内に入って来た。昼前の東銀座にある「はなまるうどん」は、5割程度の客の入りだった。
年の頃は30代後半。長身痩躯の姿は一見して神経質そうに見える。おそらくはツープライススーツの店で買ったのであろうと見て取れる、あまり身体の線には合っていない、細身のスーツを身にまとっていた。シワの入り方が不自然だ。
「風と共に店に入って来た」と書いたが、店は地下にあるので風は入って来ない。そんな気がしただけだ。
実際には、彼は、携帯電話で話をしながら入って来たのだ。細い体形に似合わない、低くて太い声が静かな店内に響く。注目が集まる。電話はすぐ切るだろう、と誰もが思った。
●●●
「ああ・・・おう・・・それで?・・・塩豚おろしぶっかけの“中”・・・それじゃダメじゃん」。
入店した時のまま、男は電話を続けながら注文する。片手でトレイと小皿を取り、うどんの丼を受け取る。すぐさま電話を左手に持ち替え、慣れた手つきで、トングで竹輪の磯辺揚げと鶏の唐揚げをつまみ、小皿に乗せる。その選択に躊躇は無い。その間、ずっと喋ったままだ。仕事の話をしているようだ。
レジの前に来ると、男は左手で電話を耳に当てたまま、右手でスーツの内ポケットから財布を取り出し、トレイに置いて開き、器用に千円札を1枚つまんで店員に渡す。
「それで、タチバナは何て言ってるの・・・」。
声色に若干の苛立ちが表われている。店員の応対も聞かず、おつりを受け取りズボンのポケットに押し込む。
振り返って、男はネギとショウガと天カスを乗せながらも、喋り続ける。ずっと左手は携帯電話を耳に押し当てたままだ。
「だから、タ・チ・バ・ナ・・・見積もり出せって言ってんでしょ?」。
声のトーンが上がる。店内の他の客たちにも、少しぴりぴりした感じが伝わる。
横に移動し、グラスに冷水を取ってトレイに乗せる。
「それじゃ間に合わないじゃん」。
席に着く。トレイを置いて、片手で割り箸を取る。
「関係無くないって・・・ばきっ・・・そう言ってんでしょ?」
喋りながら右手で割り箸を歯にくわえて割る。声色に説得調の響きが混じる。
右手だけで、うどんをすする。左手はずっと携帯電話だ。
「保管はどうなってんだよ・・・ずるずる・・・いつだよ?・・・ずるずる・・・それで?・・・ああ・・・ずるずる・・・だから3月だって・・・ずるずる・・・」。
どうやら、「ずるずる」で息を吸い込み、息を吐きながら喋り、すかさず「ずるずる」で息を吸い込み・・・という呼吸法を身につけているようだ。見事だ。
男はあっと言う間に食べ終わり、片手でトレイを持って返却棚に運ぶ。
「いいと思うよ〜・・・だからさぁ・・・タチバナに・・・」。
●●●
そのまま出口に向かい、やって来た時と同様に、一陣の風のように男は帰って行った。入店からここまでの所要時間、ジャスト5分。
言葉の内容から何の仕事なのか一切わからなかったのは、彼なりのセキュリティ意識による気配りなのだろうか?
(終わり) 実話です。

(写真はイメージです。webから勝手に借用しました)
年の頃は30代後半。長身痩躯の姿は一見して神経質そうに見える。おそらくはツープライススーツの店で買ったのであろうと見て取れる、あまり身体の線には合っていない、細身のスーツを身にまとっていた。シワの入り方が不自然だ。
「風と共に店に入って来た」と書いたが、店は地下にあるので風は入って来ない。そんな気がしただけだ。
実際には、彼は、携帯電話で話をしながら入って来たのだ。細い体形に似合わない、低くて太い声が静かな店内に響く。注目が集まる。電話はすぐ切るだろう、と誰もが思った。
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「ああ・・・おう・・・それで?・・・塩豚おろしぶっかけの“中”・・・それじゃダメじゃん」。
入店した時のまま、男は電話を続けながら注文する。片手でトレイと小皿を取り、うどんの丼を受け取る。すぐさま電話を左手に持ち替え、慣れた手つきで、トングで竹輪の磯辺揚げと鶏の唐揚げをつまみ、小皿に乗せる。その選択に躊躇は無い。その間、ずっと喋ったままだ。仕事の話をしているようだ。
レジの前に来ると、男は左手で電話を耳に当てたまま、右手でスーツの内ポケットから財布を取り出し、トレイに置いて開き、器用に千円札を1枚つまんで店員に渡す。
「それで、タチバナは何て言ってるの・・・」。
声色に若干の苛立ちが表われている。店員の応対も聞かず、おつりを受け取りズボンのポケットに押し込む。
振り返って、男はネギとショウガと天カスを乗せながらも、喋り続ける。ずっと左手は携帯電話を耳に押し当てたままだ。
「だから、タ・チ・バ・ナ・・・見積もり出せって言ってんでしょ?」。
声のトーンが上がる。店内の他の客たちにも、少しぴりぴりした感じが伝わる。
横に移動し、グラスに冷水を取ってトレイに乗せる。
「それじゃ間に合わないじゃん」。
席に着く。トレイを置いて、片手で割り箸を取る。
「関係無くないって・・・ばきっ・・・そう言ってんでしょ?」
喋りながら右手で割り箸を歯にくわえて割る。声色に説得調の響きが混じる。
右手だけで、うどんをすする。左手はずっと携帯電話だ。
「保管はどうなってんだよ・・・ずるずる・・・いつだよ?・・・ずるずる・・・それで?・・・ああ・・・ずるずる・・・だから3月だって・・・ずるずる・・・」。
どうやら、「ずるずる」で息を吸い込み、息を吐きながら喋り、すかさず「ずるずる」で息を吸い込み・・・という呼吸法を身につけているようだ。見事だ。
男はあっと言う間に食べ終わり、片手でトレイを持って返却棚に運ぶ。
「いいと思うよ〜・・・だからさぁ・・・タチバナに・・・」。
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そのまま出口に向かい、やって来た時と同様に、一陣の風のように男は帰って行った。入店からここまでの所要時間、ジャスト5分。
言葉の内容から何の仕事なのか一切わからなかったのは、彼なりのセキュリティ意識による気配りなのだろうか?
(終わり) 実話です。

(写真はイメージです。webから勝手に借用しました)
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